土佐料理〇〇で 働きよった時の事
料理長は 東京からきちょった。
ほんで みんなあに 聞きよったがよ
「わたしの 友達の 東京の料理人がこんど
シカゴに建設中の 日航ホテルの地下に「弁慶」と言う
ジャパニーズレストランに 料理長で行く事が決まった。」と言う
「ほんで この中で シカゴに 行って 弁慶で 働いてみたいものは
おらんか?」と 言いよった。
話が 終わるか終らんかの所で 「はい 行きます」
もう そっこうで 手をあげちょった。
ほんで ざんじ 大豊村の 実家へ 行って
「アメリカへ 行くきよ」 と 両親に言うと
あんた 先に 相談じゃないかえ? と 言われた・・・
ほんで それから 2週間後には シカゴへ 生まれて初の
海外へ 生まれて初の 飛行機に乗って 行ったのがやった。
ビューン
たま~るか 日航ホテル シカゴ まだ 建設中やった。
アメリカ人で 日本語のできる スタッフ 日本から来たウエイトレス
事務だけでも 10人ばあおって なんと レストランが 100席
寿司バーが 30人席 鉄板焼きレストランが 40人席 会席料理を
食べるお座敷が いっぱいあって こじゃんち 広い
調理人は 日本から来たものが 5人
現地で雇うたシェフが 10人
もう 飛行機で シカゴに着いた その日
まっ先に ディスコに 行った。 もちろん1人で
ほかの 東京からきた 調理師3人は
「怖いし 英語も喋れん」 と言うて
先に シカゴへ来て メニューとかの打ち合わせをしていた料理長に
電話をして マンションの前のコンビニへ 連れて行ってもらいよった。
なんでも 外へ出るのが怖いらしい。
今から 26年前のシカゴ アジア人が ほとんど おらんがよ
どこへ 飲みに行ったち アメリカ人の 白人と 黒人
もう 最高やった。
日航ホテルの 社員やき 住むところも シカゴの ほんと 中心
ど真ん中の 32階建ての チェスナットプレイス
ほんと 歩いて 5分のところに ニーマンマーカス言う でっかい
デパートがあるがよ ここに住みゆうと シカゴの人に言うと
みんな 腰を抜かすくらいの 場所やった。
給料は 二週間ごとにくれるがよ 15万円
住むところと 食べるものは タダやったき 月に 30万円
それが こづかいやった。
仕事は 1ヶ月間工事中やったき 給料をもらいながら遊んだ
シカゴで ざんじ 免許証を とった 学科試験は簡単やった。
試験に出る 問題は わかっちょったき それと 日本人は
日本語の辞書持ち込みОKやき 答を全部 辞書に書いていって
100点やった。
実技は 先生に 20ドル渡したら 必ず受かると言われたが
実力で受かった。
ほんで 免許を受け取るまでの費用は わずか20ドル
3000円で 免許がもらえた。
日本はその当時 20万ばあやった おっと 高~
ほんで 車を買うのは 簡単やった。
なんと 車を売りたい人は 車に 電話番号と金額を 紙に書いて
貼り付けて走りゆう。
ほんで ゆず庵は 昔の 真っ赤なオープンカー これが欲しい
と探しよったら 30万円と書いた 1966年のシボレーインパラ
これが 走りよったき
ざんじ 電話をしたら メキシコ人が 日航ホテルまで 乗って来てくれて
30万円で 売ってくれた。
この車がそう これよ
これから 面白い アメリカ生活が始まったがぜよ。
明日につづく
続きが見たいと思われた方は どうぞ
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